昔からよく友人とこんな会話を繰り返ししています。
さまざまな人たちと関わる中で、人と人のコミュニケーションから、残念な気持ちになったり、笑えてきたりと良く目にします。
「なぜ、議論から喧嘩みたいなっていくんだろう」と思ったので、記録に残したいと思います。
「不安」からマウントを取りに行ってしまう
人はとても良いし、やっていることも良いことだし、議論になってしまうと、、、なぜか、、、残念だ。
楽しければ良いと思うんだよね。
どっちが良い、どっちが悪いって、納得させなくても。
もちろん原理は理解しつつ。
なぜ、人はマウントを取りたがるんだろう?
バガボンドの「殺し合いの螺旋」みたい。
俺も負けず嫌いで、マウント取りたいって正直思ってしまうけん、「殺し合いの螺旋」からは逃げ回ってるだけなのかも。笑
正解を求めすぎ民族
正解を求め過ぎな人が多いと思います。
「政治」にしたって、「子育て」や「教育」にしたって、「バスケットボールの技術」にしたって、正解って何なんでしょう?
正解を求めるなということではありません。
正解を求めるために、議論し、より良い環境を作っていく。これは素晴らしいことだと思います。
しかし、冷静に考えると、「人間はなぜ生きてるの?」とという問いと同じで、「わからない」ことが多いと思います。
1/3×3=1
0.33333…×3=0.99999…
わかるようでわからない世界
みんな、0.000000000……1を探すことに命を削りあっているように感じます。
すべての物事は、「わからない」でも、答えを求める。
自然なことでしょう。
わからないことへの不安から感情的に「真実は一つ」と錯覚してしまうのでしょう。
少しでも不安を取り除きたいことから、承認欲求が高まり、近くの人を巻き込み、無意識に洗脳したがってしまう。
正解を求めすぎてしまう人たちは、みなマウント取りに走ってしまうように思います。
まとめ
みんな、良かれと思ってやっていることがほとんどだと思います。
しかし、気づかない内に、他者を傷つけてしまったり、自分で自分を苦しめていったり。
自然の原理原則に寄り添うことで、少しでも、自分を守る力、無意識に他者を傷つけてしまわないスキルを養えると思います。
僕はこれからも逃げ回ります。笑
自分を守れる力を得て、無意識に他者を傷つけてしまわないスキルが身につけれたら、少し前に出ようと思っています。